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此の所 小便無用 …

「沖の暗いのに白帆が見ゆる、あれは紀ノ国みかん船」とカッポレに唱われた紀伊国屋文左衛門。文左衛門伝説をサラッとみてみよう。

紀州湯浅(和歌山県有田郡湯浅町)出身の文左衛門が 20代の頃、地元・紀州ではみかんが大豊作で価格が暴落していた。一方、江戸では鍛冶屋の神様を祝う「ふいご祭り」が近づいていた。鍛冶屋の屋根からミカンをばら撒いて地域の人たちに振るまう風習があるのだが、連日の嵐で海路が閉ざされ、上方からみかんが入荷しない。相場はみるみる高騰していた。そこに目をつけた文左衛門は、親戚から大金を借りてみかんを買い集め、家にあった古船を改修して嫌がる船乗りを叱咤激励し、命がけで江戸にみかんを運び入れた。

このみかん船で巨富を得た文左衛門は帰りの船でも一儲けをたくらむ。そのころ大坂で洪水があり、伝染病が流行っていた。そこで、江戸で買えるだけの塩鮭を買い集め上方にもどることにした。仲間に、「伝染病には塩鮭が一番効く」と噂を流させ、大坂にもどると文左衛門の塩鮭は飛ぶように売れた。

こうして江戸への往復ビジネスで巨財をなした文左衛門は、その資金を元に江戸に移住し、材木商を始める。当時の江戸はとにかく火事が多く材木ビジネスは大いに儲かった。同業の奈良屋茂左衛門との吉原豪遊合戦も江戸っ子の話題になり、彼らが吉原に来れば祝儀の小判が雨のように降りそそいだという。

金も名もない若い商人・文左衛門が屈指の豪商になっていったというサクセスストーリーなのだが、資料がないことからあくまで ”伝説” ということになっている。

その文左衛門は晩年、浅草寺内や深川で暮らしている。当時有名な俳人だった宝井其角(たからい きかく)と出会い、直接俳句を学んだ文左衛門。宝井は深川にあった俳人グループ「芭蕉庵」のリーダー・松尾芭蕉の一番弟子である。師匠が「奥の細道」の旅に出ていることから、宝井が江戸でもっとも人気のある俳諧師になっていた。

文左衛門は俳号を「千山」と名乗り、吉原でも興が乗ると俳句をひねっていた。ある日のこと、宝井と一緒に吉原で豪遊していた文左衛門は、茶屋の主人に一句求められた。ところがすでに酩酊していた文左衛門は、受け取った短冊にすらすらと「此の所 小便無用」(ここにオシッコをしてはいけません)と書いて主人に投げ返した。町角でよく見かけられる貼り紙の文句であり、主人はがっかりした。

当時の俳人は、文化人というよりは、幇間(たいこもち、男芸者)の色合いが濃かった。宝井も幇間としてこの座を盛り上げねばならない。もしあなたがこの場に居合わせた宝井だとしたら、どうするか。

<正解は明日に>と書くとお叱りを受けそうなので正解を発表する。

宝井は主人から短冊を取りもどし、文左衛門の文字の下に「花の山」と付け加えた。それによって二人の有名人・文左衛門と宝井による、こんな合作俳句が完成した。

「此の所 小便無用 花の山」

主人は大いに喜んだという。

私はこの話が好きだ。

”みかん伝説”も良いが、”小便俳句伝説”も好きだ。何がいいって、こんなどうでも良い小話が後生大事に語りつがれていることに粋を感じるのである。