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人間五十年

NHK大河ドラマ『利家とまつ』で好演した反町・信長。まったく新しい信長像を我々の前に示してくれた。あいにく萩原・光秀に討たれ、本能寺で絶えた。信長、享年49才。今の私と大差がない。

燃えさかる炎のなかで信長は、謡曲「敦盛」を舞う。

・・人間五十年、下天のうちをくらぶれば、夢幻のごとくなり・・・

サビの部分だけがおなじみだが、正式の歌詞はこうらしい。

・・・亀丘林幸若   敦盛 ・・・

思えば此の世は常の住処にあらず草の葉におく白露水に宿る月より猶あやし金谷に花を詠じ栄華はさきを立って無常の風にさそはるる南楼の月を弄ぶ輩も月に先だって有為の雲に隠れり人間五十年下天の中をくらぶれば夢幻のごとくなり一度生を受け滅せぬ者のあるべきか滅せぬ者のあるべきか人間五十年下天の中をくらぶれば夢幻のごとくなり一度生を受け滅せぬ者のあるべきか滅せぬ者のあるべきか

・・・

ところで、この歌詞のなかに出てくる「下天」という存在についてご存知の方も多いに違いない。仏教用語だという。お盆の最中、叔父から次のような話を聞いたのでご紹介しよう。

仏教の宇宙観のなかに「六道」というものがある。地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上界の六つを、我々は次々と巡っており、その6つが「六道」だというのだ。

“人間”というランクは上から二番目だが、その上には“天上界”という世界があり、その中の最も低いところを「下天」とよぶ。そこには、四天王が住んでおり、なんと一日が人間の50年分ある。しかも、下天の住人の平均寿命が900万年というから、スターウォーズの“ヨーダ”(たしか800才くらい)は、少年にすぎない年齢だ。

まさしく人間世界の50年なんて夢まぼろしのようだとも思いたくなる。そんな死生観のようなものを信長という天才革命家は持っていたから敦盛を好んで舞ったに違いない。

「アッ、そこにセミがいる。捕まえてみろよ。」「いやだよ、僕は、遠慮しとく。」「どうしてだ、簡単にとれるぞ。やってやろうか。」「お父さん、やめなよ。セミの寿命は7日しかないから、何だか可哀想じゃない。」小学5年生の息子は、セミの寿命を気にして捕ろうとしない。たしかに“人間”の尺度でみればたった7日。だが、「たった7日」とは、“人間”の尺度にすぎない。

仏教で教える“天上界”からみれば、人間の寿命はセミ並みの時間でしかない。いや、“天上界”の1日相当なので、セミ以下だろう。そのセミに成功と失敗があるのかどうか分からないが、人間には与えられた時間の枠内での「成功・失敗」という概念がある。

何をもって成功・失敗というかは人それぞれだが、自分がなれる最高の自分を探し求めながらベストを尽くす日々そのものが成功なのではないかと思う。

信長が活躍したころから400年ほど経っており、平均寿命は30年伸びた。だが、この30年の時間延長は、間延びであってはならず、価値ある何かに振り向けたい時間である。