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D社の破綻

今日は自己反省(猛省)しながらこの原稿を書いている。

先週、顧問先のD社が倒産した。住宅会社として中堅規模であり、とりわけ名古屋での知名度が高かったことから、中日新聞では大きく取り扱われた。

今なお“敗戦処理”のまっただ中にあることや、関連企業の事業が存続していることから、この件を原稿にするのは躊躇してきた。
ましてや、私も責任の一端をになっていると思うと、書きにくい話題だが、あえて今しか書けないと思い勇気をふりしぼっている。

この会社では、「経営改革プロジェクト」として社長を除く全役員が参加して毎月2回程度のミーティングを重ねてきた。
私はその中で座長的な役割を担当していた。
最初のスタートは5カ年の経営ビジョン作りから始まったが、2年目からは、その進捗チェックと当面の経営課題についての具体策をこのプロジェクトから進言していた。

このD社は、住宅会社として一斉を風靡した。
コンクリートハウスのオリジナルブランドは中部地区に定着していた。また、関東・関西にも支店があり、ピークには300億の売上高をあげ、当然、株式公開の準備にも着手した頃があった。その会社がなぜ・・・。

何かの事業で大失敗したのではない。販売不振による不況型倒産なのだが、一つひとつの意思決定のミスや決断の遅さがジワジワと同社の体質を弱めていったように思う。

「変わらなきゃ」
かつての日産のスローガンのように、この会社も変わると宣言し続けた。経営陣に危機感はあったはずだ。
だが、経営陣も会社も変わることができなかった。
いくら危機感だけが強くても、インパクトある具体策とその実行なくしては変わることができない。
変化のスピードは、その企業固有のものであり、意思決定の遅さは致命的だったように思う。

「聖域なき構造改革」

「そこまでやるのか」と周囲をあっと驚かせる改革を行っている日産のゴーン氏。
デザインの担当重役を同業他社の“いすゞ”からスカウトした。
車のデザインは日産という会社の顔でもある。そのトップをこともあろうに同業他社から引き抜くとは・・・。
誇り高きエリート集団にあっては常識外の人事だ。

また、系列の芙蓉グループ内の鉄鋼メーカーからの仕入れ比率も下げた。
コストダウン目標を達成するためには、文字通り“聖域”はないことを態度で示した。

今ある組織をぶっこわすくらいの構造改革、社内から非難と反対の集中砲火を浴びるような改革が必要だ。
重病人に栄養ドリンクを与えてもだめで、緊急外科手術が必要だったのだ。

ところで、D社の役員の中でいったい何人がここまで切実に重い事態が待っていると認識していたのだろうか。

「このままでは来年はない」と方針書には書かれていたが、どの程度の認識でそれを書いていたか。
また、社員はどの程度の危機感と切迫感でその方針を受け止めていたのか。

事業の継続を断念するわずか数日前のプロジェクトでは、次年度の組織づくりについて「経営改革プロジェクト」で話し合っていたのだ。

『60点主義で即決せよ。決断はタイムリーになせ。決めるべきときに決めないのは度しがたい失敗だ。』 (土光敏夫)

日本経済全体からみれば、一企業の倒産は、経済再生のプロセスの一部として、決して悪いことではない。弱者は滅びて当然なのかも知れない。

だが、その当事者の境遇や心境を推し量ると、言葉にできないほど複雑で神妙な気持ちである。