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64歳になってみて

「あれ親父。老いたか」と息子にからかわれた。

先日の読売ジャイアンツの劇的勝利を語っているうちに胸にこみあげてくるものがあり、感極まってしまったのだ。
こんなことで泣く親父ではなかった、というのが息子の気持ちなのだろう。だが、息子はまだ本当の親父を知らない。昔から親父は涙もろかったのだ。

ニューヨークのブロードウエーで『キャッツ』を観て泣き、青森では「ねぶた」で泣き、徳島の「阿波踊り」でも沖縄の「エイサー」でも長崎の「くんち」でも泣いた。
高校野球やオリンピックで泣くことなどは日常的である。時にはメルマガを書きながら泣くこともある。
ただ、今まで人前でそれを見せないようにしてきた。うかつにも昨日、それを見られてしまっただけなのだ。

「64歳のご気分は?」と今朝のメール。
せっかくなので、今日のメルマガでそれにお答えしてみたい。まず、どうみても64歳は後半戦だ。人生100年時代だとしても後半戦にいる。
だが、私は自分の人生をトーマスパーみたく150年あると思っているので、まだ前半戦だ。

将来に備え、今のうちから身体を鍛え、語学力も IT スキルもみがいておかねばならないと思う。今後、大恋愛が発覚し家族中に激震が走るかもしれない。上場企業を何社か起ち上げる計画だってある。
外国に移住するかもしれない。カバンの中には「ひざ痛の治し方」の本が入っていたりするが、なにも矛盾したことではない。
「年相応」とか「年甲斐もなく」という言葉だけは決してつかわない。

そもそも「老人」という言葉には明確な定義がないようで、何となく65歳以上をそう呼ぶところが多い。だから私の64歳はギリギリセーフだ。
だが、50歳で映画館にいったとき「夫婦50割引」が受けられることを知った。さらに60歳になるとシニア割引の対象になる。
65歳よりも前から老人扱いする施設があちこちにあるのはいかがなものか。映画は「夫婦70割引」が適当だろうし、シニア割引だって70歳からで十分だろう。
年金だって支給年齢を引き上げて当然だろう。

『革命のファンファーレ』で西野 亮廣氏は「老いていくことは衰えではなく成長だ」と言っている。
若いタレントが美しさや格好良さのピークを超すとネットでは「劣化」などの表現を使う。
アイドルとしての価値に若さと勢いという項目があるのなら「劣化」の指摘もわかるが、人としては着実に「成長」していることを認めねばならない。
自分にも向けられる言葉なので安易に人を「劣化」などと評してはならないのだ。

その点で西野氏の発言は好感がもてるが、すべての人が成長していくわけでもない。
老いは成長だ、と言い切るにはそれなりの条件が必要なのである。

<明日につづく>