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続・賢者とはなにか

古代ギリシャの哲学者ソクラテスは紀元前469年生まれ。ほぼ同時代に釈迦や孔子が生まれている。当時は哲人が育ちやすい環境だったようだ。

さて、昨日号の続き。
自分はあらゆることに疎い(うとい)と思っていたソクラテス。だが
「あなたより賢い人間はいない」と巫女にいわれ戸惑った。そこで、反証を試みた。
「賢者」とよばれる人に次々会って話してみると、たしかに自分の方が賢いようだと気づいた。やがてソクラテスは悟った。

「最大の賢者とは、自分の知恵が実際には無価値であることを自覚する者である」

そして行動に出た。
世間の賢者たちの無知を指摘することをライフワークにしたのだ。その結果、はからずも世間を敵に回すことになり、最後は死刑を言い渡される。

そのあたりが『ソクラテスの弁明』(プラトン)に書かれている訳だが、最後は毒杯をあおったソクラテス。
なにも知らない人によってはりつけにされたイエスと映像がオーバーラップする。

ソクラテスが言うように、私たちが知っているのは表面的で些末なことに過ぎず、深淵で価値ある知恵については何もしらないのだろう。
自分は何もしらない初心者であり、止まることなく学び続けようとするのが賢者だ。

「俺に白帯を着けてくれ」と嘉納治五郎。
柔道の創始者・嘉納は棺に入れられる自分の姿は白帯こそがふさわしいと考えていた。それが永遠の初心者、求道者の心得だろう。
嘉納治五郎がどれだけ禅を学んでいたかはしらないが、こうした精神は禅がもたらしたものといえる。

禅をアメリカに広めたことで有名な鈴木俊隆は『禅マインド ビギナーズ・マインド』で「初心」の大切さをこう述べている。

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初心者の心、「初心」には、「私は何かを得た」というような思考がありません。どのような自分中心の思考も、無限に広い心の中に限界をつくります。なにかを達成したいとか、達成したといような心がないとき、つまり、自分中心の思考がないとき、私たちは、本当の初心者なのです。このとき、私たちは、初めてなにかを学ぶことができます。初心者の心は、すべてを受け入れる慈悲の心でもあります。私たちの心が慈悲に満ちているとき、それは無限なものになっていきます。
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蛇足ながら、
昨夜、二人の年配経営者(お二人とも70代半ば)と夕食をご一緒したが、笑いがたえない楽しい時間だった。
きっとそれは「初心」の空気があふれていたからだろう。知識や経験のひけらかしあいでは、そうした空気が生まれない。
常に新しいことに挑戦するというのは、その分野において初心者にならざるを得ず、それが心の若さの秘訣になっているようにも思う。