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安田善次郎の最期

三井、三菱、住友と並んで日本四大財閥の一角を占める安田財閥。
創始者・安田善次郎は富山出身。20歳で江戸に出て奉公人として働きはじめ、貯めたお金で26歳(慶応2年)で両替専業の安田商店を日本橋小舟町に開業。やがて頭角をあらわし、幕府の御用両替商となり、明治新政府にもうまく取り入って巨利を得た。
以来、金融部門に絶対的な強みをもつことから、安田は「金融財閥」とも呼ばれ、金融に関しては他の財閥の追随を許さなかった。
のちに安田商店は「安田銀行」となり「富士銀行」となり、現在の「みずほ銀行」「みずほフィナンシャルグループ」になっている。

安田はあるとき匿名を条件で東大に講堂建築費を寄贈した。
そのほかに明治35年と42年には早稲田大学にも寄附し、学苑最初の校賓に推されている。日比谷公会堂、千代田区立麹町中学校校地なども善次郎の寄贈だが、「名声を得るために寄付をするのではなく、陰徳でなくてはならない」として匿名で寄付を行っていたため、世間に知られることはなかった。

安田が創設した学校に安田学園(中学と高校がある)があるが、読売ジャイアンツの阿部慎之助選手はその高等学校(東京都墨田区)を卒業している。

無駄なお金はびた一文使わないが、意義ある活動には寄付を惜しまなかった。だが安田の最期は皮肉にも暗殺だった。安田の陰徳を一切知らない人間が逆恨みしたのだろう。

1921年(大正10年)9月27日、神奈川県の大磯にある別荘に、弁護士・風間力衛を名乗る男が現れ、労働ホテル建設について談合したいと申し入れたが、面会を断られた。この風間力衛は実在の人物であるが、実は本人ではなかった。(風間は事件とは無関係)

その者は神州義団団長を名乗る朝日平吾で、勝手に風間の名を名乗っていただけだった。面会を断られた翌日、朝日は門前で4時間ほどねばったところ、面会が許された。午前9時20分ごろ、善次郎が別荘の十二畳の応接間にあらわれたところ、朝日に短刀で切り付けられた。
あわてて逃げようとした安田だが、廊下から庭先に転落したところを咽頭部にとどめを刺されて死亡した。その後朝日も自害した。

朝日が手にしていた手紙にはこう書かれていた。

「奸富安田善次郎巨富ヲ作スト雖モ富豪ノ責任ヲ果サズ。国家社会ヲ無視シ、貪欲卑吝ニシテ民衆ノ怨府タルヤ久シ、予其ノ頑迷ヲ愍ミ仏心慈言ヲ以テ訓フルト雖モ改悟セズ。由テ天誅ヲ加ヘ世ノ警メト為ス」

要するに、「安田は巨万の富を得ておきながらその責任を果たさず、貪欲に金をため込むけしからん人間である。よってここに天罰を与える」という意味である。

陰徳がアダとなってしまったわけだが、実はこの1か月後に東京駅で起きた原敬(はらたかし)暗殺事件は、この事件に刺激を受けた者の仕業と言われている。

明日の号ではこの暗殺事件の10日前の出来事をご紹介する。

当時84歳ながら安田翁がいかに意気軒昂であったかを物語るエピソードでもある。