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続・読むのも考えるのもひとつのレッスン

ご相談にみえた社長と話し合うこと90分。何らかの結論めいたものがでて、「さあ、ここまでにしましょう」と腰を浮かせたそのとき、「なかなか難しいですね」と言われるとガッカリする。
それが結論なのか。この議論はいったい何だったのかと思う。悩むことがお好きな社長なのだろう。

そもそも「悩む」ことと「考える」ことは別ものである。
結論を出そうとしない思考のことを「悩む」という。または、結論を出せないテーマを思考することも「悩む」という。
その反対に、結論を出すために思考することを「考える」という。それはアグレッシブな思考態度だ。

人生をいきる上では「悩み」があって然るべきかもしれないが、ビジネスに「悩み」は不要だ。特に経営者にとっては仕事の「悩み」など、あってはならない。なぜなら経営者とは、今日とはちがう明日をつくるために日夜考える人だからだ。

「人間が、いろんな問題にぶつかって、はたと困るということは、すばらしい“チャンス”なのである」と本田宗一郎氏。

困ることがすなわちチャンスなのだという。困ることで初めて自分の頭で「考える」必要がうまれ、それが成長につながるからだ。
特に、「不可能」と思えるような難題にぶつかる方が良い。なぜなら、いままでと同じ思考回路では結論が見いだせず、思考回路を変えねばならないからだ。それがブレイクスルーを生みだす。

先週木曜日に『思考のレッスン』(文藝春秋)をご紹介した。著者の丸谷才一氏は「考える」ことに関する自らの失敗談を語っている。

あるとき歴史学者と対談した丸谷氏は、「歴史好きは必ず年表を脇において本を読んでいる」という対談相手の発言に興味をもった。丸谷氏もそうしていたからだ。
そこで、そもそも「年表とは何か」を知りたくなり、関連書籍をさがしたが見つからなかった。編集部の人にも調べてもらったが、「そういう本はないそうです」という返事だった。
そこで諦めかけていた丸谷氏。しばらく経ってある本を読んでいたら、ヨーロッパ中世の地方都市の年表が出てきた。
それを見ていくうちに、年表の特性は、年表とは対照的なものと対比することで明確になることに気づいた。それは自分(丸谷氏)の縄張りでもある「物語」との対比だった。「年表」と対照的なものは「物語」だった。小説家である丸谷氏は、「年表とは何か」を考えるのでなく自分の専門である「物語とは何か」を究明していくことで年表というものの特性が分かるはず。自分で考えることもしないで「年表に関する本はないか」と尋ねまわった自分に恥じ入った、というのだ。

「考える」ことのきっかけは「謎」を育てることにあるというのが丸谷流。「おや、おかしいぞ」と自分の内から出てくる小さな謎を育てようという。それが大きな疑問や新たな仮説につながる。出来合の謎、誰かに与えられる謎はよろしくない。それでも自分が痛切に「不思議だ」と思うことができれば、それでもよい。

次に大切なことは、最初はぼんやりしていた謎を明確な問いかけに育てることだという。そのためには、自分のなかにいるもう一人の自分に謎を突きつけるつもりでちょうど良い。

そして謎解きを急ぎすぎないこと。すぐに答えや結果を求めようと焦ると浅い思慮や安易な結論と解決策を生みだしかねない。
謎を明確な問いにすることさえできたら、期限を決めてその時間枠を目一杯つかって考えを深めよう。そのときには、常識や定石、定説のようなものにとらわれてはいけない。

『思考のレッスン』というタイトルだけあって、思考という目にみえないものの道理を実務的な解説で説いてくれる。とくに「定説に遠慮するな」というくだりが気に入った。

道理にあわない偏った意見のことを「僻論」(へきろん)というが、たくさんの僻論を出せる人が良い経営者だと私は思う。
紅茶じゃあるまいし、セイロンばかりが良いとは限らないのだ。

話が落ちたところで、今日はここまで。