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髀肉の嘆

「髀肉の嘆(ひにくのたん)」という言葉がある。髀肉、つまりふとももの肉のことだが、我がふとももを見て嘆いた人がいる。三国志に登場する劉備(りゅうび)がその人であり、次の故事にちなんでいる。

戦乱の中に身を置き、常に馬の鞍から離れることがなかったころは、ふとももの肉はみな落ちてしまう。だが、戦を好まぬ劉表(りゅうひょう)の世話になって早7年。戦馬にまたがることもなく、ふとももには肉がしっかりついてしまったことを嘆く。そして、月日は馳せるように過ぎ去って行くのに、私は老年に近づいた今となっても功業をうち立てる事ができずにおり、それが悲しいと一人厠(トイレ)で泣いたという故事だ。力を発揮する機会に恵まれないことを嘆く意味で今日でも使う。

先週末、それとまったく同じ光景に出くわした。

2/28、私と百式・田口さんとで行った「メルマガビジネス活用セミナー」二次会でのこと。セミナー参加者のZ君(29才)の目が充血しているではないか。

「どうしたの、花粉症?」と私が尋ねると、

「武沢さん、オレ悔しいっす。」

とZ君の声が微妙にふるえている。わけを聞くと、彼と同世代にもかかわらず、セミナー講師の田口さんも参加者のAさんもBさんも、みんなすごい。完全に負けた。悔しくて悔しくて、さっきまでトイレで泣いていたという。

「君はすごいねぇ」と言いつつ、私は“髀肉の嘆”の劉備に対する劉表と同じことしかできなかった。つまり、「そんなに焦らなくても良いよ。」というなぐさめだ。

同時に、内心で三つのことを思った。

1.「悔しい」と泣ける感性をもったZ君はいまどき珍しいスピリッツを持っている。その負けん気、素晴らしい。
2.人と張り合うのでなく、自分の中になにかの尺度をもって生きることが大切ではなかろうか。
3.Z君が社会人になって約7年。今日まで、悔しさを実感するような機会がなかったのだろうか?という疑問。

とりわけ、ここでは最後の3番目を重視したい。

Z君の仕事は営業だ。新規で人と会う機会は決して少なくはない。

しかし、自分と同世代の社外の人たちと、営業を抜きにして交じり合う機会は意外に乏しい。ひょっとしたら皆無の可能性もある。
明治を創った志士たちは、日本中を旅し、同世代の同志たちと真剣に交わり、相互に啓発しあった。生死をともにできる友と出会うことも多かったに違いない。
現代社会に当てはめて、そうした出会いのチャンスは、経営者にだけ限定されて許されているのではないか。

社員にそうした出会いの機会を与えるようにしよう。今回のZ君がそうであったように、研修の機会を与えることもその有力な方法だと思う。そうした目で、改めて社員への刺激と成長機会の創出を考え直す必要があるようだ。