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続・三人の笑うお坊さん

●昨日のつづき。

昔、中国に三人の僧がいた。彼らは僧なのに一切説法をせず、ただ辻に立って笑うだけ。そして周囲に笑いの渦をつくりだすのだった。
やがて中国各地で彼らは「三人の笑うお坊さん」として有名になり、人びとに愛された。

●しかし彼らも年をとり、ある村でとうとう一人が死んでしまった。

それを知った村人は悲しんだが、別の期待をした。
いくらなんでも今日だけは、残った二人の僧は笑わないだろう。今日は二人の泣く姿が見られるにちがいない、と。

案の定いつもの場所に彼らはいた。だが、その光景をみて村人たちは驚いた。二人のお坊さんは、死体のかたわらに立って腹をかかえて笑っていたからだ。

●今度ばかりは村人も解せなかった。抗議するかのようにこう問うた。

「お仲間が亡くなったのになぜ笑うのですか?」

このとき、二人のお坊さんは初めて口をひらいた。

「なぜ笑うのかって?それは、この男が勝利を収めたからです。我々は常日ごろから誰が一番先に死ぬのかと思っていた。そうしたら、今日、この男が我々を打ち負かして先に行ってしまった。我々は自分の敗北と彼の勝利を祝って笑っている。何年も共に暮し、共に笑い、共に在り、互いの存在を楽しんできた。最後の見送りもこの方法以外にない。そう、ただ笑うだけ」

●それを聞いても村人は笑えなかった。いつもそこで笑っていた人を一人失い、悲しかったからだ。

だが、火葬される薪の上に遺体が乗せられたとき、亡くなった僧の顔が村人にみえた。その顔はいつものように笑っていた。まるで生きているかのように笑っていたのだった。それをみて、村人も悲しむのをやめた。

●死んだ僧は、仲間に頼みごとをひとつ残していった。

「どうか私の服を変えないでおくれ」。

二人の僧はそのことばを尊重した。当時の風習では遺体を風呂に入れ、服を新しいのに着がえて清めた上で荼毘(だび)に付すのだが、あえてそれをしなかった。

●ついにお別れのときがきた。僧の体が火の上に置かれた。

皆で合掌した。

その瞬間、そこにいた全員が気づいた。
死んだ僧は服の下に多くのものを隠し持っていたのだ。そして、火の上で彼が企画したショーが始まった。

服の中に隠しもっていたのは「中国花火」だった。

●バチバチバチッと、爆竹のはげしい轟音がなり始めると、村人たちは最初おどろき、やがて、はじけるように笑いはじめた。

二人の僧も笑いながらこう叫んだ。

「なんてやつだ、お前は。死んでまた、我々を打ち負かした。最後に笑ったのもお前さんだ」

※『新瞑想法入門』(OSHO著、市民出版社)より
→ http://e-comon.co.jp/pv.php?lid=2965

●仏教では、人生の余分なものを一切合切脱落させてしまうことを解脱(げだつ)という。悟りとも大悟(だいご)ともいう。

富も名声も健康も命さえも自分の本質とは無関係であることに気づくと、この世に生が授けられたこと自体がひとつのご褒美だし、この世を去るときも、去ってからも自分はたえず “そこ” にいる。

「なんだ!自分はただ存在するだけで、ひとりの大成功者だったのだ」と気づく。
俗な私欲に執着して生きるから四苦八苦の無限ループから脱出できないのだ。「悟り」の境地を開いた覚者にとって、どうせ瞬時にすぎない人生は、ただひたすら笑って過ごすが一番なのだろう。

だからこそ真剣に目の前のものごとに集中する気迫も生まれてくるものである。そんな境地に早くなってみたいと思うエピソードである。