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お金と愛

●「是非一度お会いしましょう」「今度、お時間をください」「今からおじゃましてもいいですか」などといわれるうちが華である。
そんな状態がずっと続くことはないので、チヤホヤされているうちにおおいにチヤホヤされよう。

●「貧は自由の伴侶である。束縛は富に伴うものである」(内村鑑三)

自由はあらゆるもののなかでもっとも価値あるものだと思うが、自由と貧とはセットらしい。その反対に束縛と富もセットだという。

「若いうちはヒマがあるがカネがない。年をとると、カネができるがヒマがなくなる」と皮肉っぽくいわれるが、それもそのはず、セットなのだから。

●ついでながら、内村鑑三はつぎのように補足している。

「富は人の作ったものである。ゆえに富んで人世の束縛より離れることは、はなはだ難しくある。貧者のひとつの幸福は、世が彼の交際を要求しないことである」

●イエスは弟子たちにむかってこう言った。

・・・

「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか」

弟子たちはこの言葉を聞いて驚いた。イエスは更に言葉を続けた。
「子たちよ、神の国に入るのは、なんと難しいことか。金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」

・・・「聖書:マルコの福音書より」

●金持ちを否定するわけではないが、お金が一番大好きだと考えている人には困ったもので、仏教でも次のように教えている。

以下、『和尚、禅を語る』(玉川信明著、社会評論社)より。

・・・
禅師、清通(せいつう)は説教していた法堂がとても込みあってきたため、もっと広い屋敷を必要としていた。貿易商人の梅津(ばいしん)は、新しい法堂の建設に金貨五百枚を寄付することにした。
梅津は、師のもとに金をもってきた。

清通は言った。「よろしい、受け取ろう」

梅津は、金貨の袋を清通に渡した。だが、彼の渡した金額はかなりのものだったので、彼は師の態度にとても不満を感じた。
金貨三枚でまるまる一年暮らせるというのに、師の口から感謝の言葉も出なかった。

「その袋には、五百枚の金貨が入っています」、梅津はほのめかした。
「前にもあなたはそう言った」清通が言った。
「例え私が裕福な貿易商人でも、金貨五百枚は大金です」梅津は言った。
「私に感謝してほしいのか?」清通が言った。
「あなたはそうすべきです」梅津は言った。

「なぜ私が?」清通が言った。「与えた者が感謝するものだ」
・・・

●いかにも禅的なやりとりである。

金持ち・梅津は導師にこう感謝すべきだった。

「あなたがそれを受けとってくださるかどうか心配していました。あなたにとってこれ(大金)はただのゴミなのに、受けとってくれた。
あなたは本当にお優しい方です。ありがとうございます」と。

●そもそもなぜこの金持ち(梅津)は、金貨・五百枚もの大金を導師に与えようと思ったのか。寄付自体は立派な行為である。だが。もっと大切なことは動機であり、寄付の態度である。

●梅津の場合は、あの世での安全や保証が欲しかった。お金第一で生きてきたことへの罪ほろぼしである。

何らかの条件付きで大金を与えたわけだ。それは、取り引きや駆け引きの類とおなじであり、与える側は自分の条件が満たされるまでのあいだ、ずっと不満が残る。

「自分は損をしたのではないか」と。
少なくとも相手が感謝してくれるまでは報いられた気持ちになれないのだ。それが、「お金の道」を生きる者のマインドである。

●『和尚、禅を語る』では、「お金の道」の対極にあるのが「愛の道」であると説く。

この両者は対極にあるので決して交わることがない。「愛の道」を歩む人は与えれば与えるほど愛の感情が内側からわき起こり、尽きることがない。
愛の気持ちを分かちあえる人を探しもとめて生きる。そこには感謝も見返りも必要ない。与えること自体が喜びなのだ。

うらぎられた、だまされた、バカをみた、という言葉が存在しないのが「愛の道」である。

●企業経営者は「お金の道」に生きるべきか、それとも「愛の道」に生きるべきか。問いを変えるなら、どちらの道を生きている経営者の方が成功しやすいか、ということでもある。

●「愛の道」を生きる人は見返り(売上や利益)をあまり求めない。
そんな人が社長をやると、利益を度外視して奉仕してしまうため、赤字をも受け入れるようになる。当然、会社は成長しない。大きくもなれない。下手をすると倒産する。だから、心を鬼にして利益意識を高めるか、それができる腹心幹部を近くにおく。

●「お金の道」を生きる人が会社を経営すると一時的にはうまくいくことがある。だがそれは表面上にすぎない。内情は大忙しだ。走り続けるしかなく、止まったらおしまいであることを彼らは本能的に知っている。成層圏をつきぬけるまで猛スピードで突っ走ろうとするが、多くは破綻する。

●究極の社長は「お金」と「愛」の両方を取りにいく。

自分がチヤホヤされるのではなく、会社やスタッフや商品・サービスがチヤホヤされるようにする。場合によってはお客が主人公になってくれてもいい。

富は狙うものではなく、ともなってくるものだ。

同時に自由も狙いにいく。束縛は敵だからだ。

自分自身はあくまで裏方に徹して表にでてこない。その結果、「世が彼の交際を要求しない」状態をつくり、自由を得る。

それが究極のわがまま社長ではあるまいか。

★和尚、禅を語る → http://e-comon.co.jp/pv.php?lid=2964