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信じてくれる人がいれば

●去年、ワンマン社長の父が60才の誕生日を目前にして倒れた。脳梗塞で救急病院に運ばれ、一時は集中治療室に何日ものあいだ入っていたが二ヶ月後、無事に退院した。

「一日一時間くらいなら会社に行くのもOK」と医師の許可がでた。
だが、父には軽い障害が残っていた。

●父はよく居眠りするようになった。
応接室で目の前に客人がいても居眠りする。奥様が足でコンコンして起こす。何十年来の友人がお見舞いにきても顔を思い出せないこともあった。
そんな父だが、まだ社長をやってもらわないと困る。父は僕と違って偉大なんだ。まだまだ僕は専務業が関の山。

●そんな専務が社内会議をみてほしいと武沢に連絡してきた。
引きうけた私は、約束時間より少し早めに行って社長にご挨拶したところ、たしかに障害はありそうだが目が生きておられるのを確認した。

「専務、大丈夫だよ。たしかに社長はまだうまく話せないし、時々応答が変だけれど、こちらの言葉は確実に届いている」

●会議室には社長、副社長(奥様)、専務、社員20名、そして私が着座した。専務の司会で会議がはじまった。全員に配布された資料を確認しながら議論がすすむのだが、どうも空気が変だ。よくみたら、社長の分だけ資料がない。

●専務の横にいた私は、「社長の分も資料がいりませんか」と小声で言ってみた。すると専務は「ええ、大丈夫です」という。
「何が大丈夫なんだろ?」と思いながらも引きつづき様子を見ていたら、社長は隣の奥様の資料をさかんにのぞきこんでいる。

●このままではマズイと思った私は、「専務、社長の分の資料も準備してきてください」とお願いした。

あれから一年たつ。

社長は意識的に専務を全面に押し出すために控えめなスタンスを守っているが、堂々と人前でスピーチされるまでに回復された。
いつも一緒に奥様がそばにいないと外出もできなかった社長が、今では一人で外出されるまでに回復された。すごいぞ!社長。

●人間の可能性は無限だと言うが、愛してそれを信じてくれる存在が必要のようだ。

昨日、私は名古屋市内のスタジオで音楽家の渡辺知子さんと対談した。彼女が司会する音楽&トーク番組(1時間もの)だった。

収録が終わり、知子さんの音楽一座の皆さんも交えてランチをご一緒することにした。
音楽を通して障害者とその家族を支援する活動をされている彼女達のお話を聞いて、私は不覚にもほほをぬらした。それは障害者が可哀相だからではなく、「みんなすごいぞ」と感動したから。

●ある青年は障害をもって生まれ、ずっとしゃべれなかった。それだけでなく、何事にも我慢ができないたちの子で、自分が満たされないと、すぐに他人や自分のからだを傷つけるくせがあった。

●そんな彼が福岡にある渡辺さんたちの施設に入る。

そこは障害者支援のために子供を預かり、音楽教育を施していた。しかも指導はかなり厳しく、できるようになるまでやらせる。障害者だからと中途半端な妥協はしない。

●知子さんが笑って言うには、「私のこと何て言われているか知ってます?デビル知子なんですよ。ときには悪魔にみえるらしい(笑)」

必ずできると信じて疑わないから、やれるようになるまでやる。そして、やれるようになったら全身できつくハグして祝いあう。
知子さん自身が過去に二度も大きな病で倒れ、天国の入り口を見てきた経験をもっているから、「障害はその子の個性の一部にすぎない」という信念があるのだ。

●生まれてからずっとしゃべれなかった彼は、音楽隊で銅鑼(どら)を担当することになった。

銅鑼をならすことに自分の居場所を見つけた彼。一曲のなかで彼の出番は多くない。大半が待ち時間である。待ちに待って、ようやくその瞬間が来たときに「ジャーーン」とおもいきりならす。
それですべてが癒された。
あるとき、銅鑼の担当者を変えようとしたことがある。その時、彼は銅鑼を抱きかかえて手放そうとしなかった。

●彼の許可を得れば、他の子でも銅鑼をたたかせてくれるが、許可がないと大変なことになる。
ある日、彼がトイレに行っているとき、他の生徒が銅鑼を鳴らしたことがあった。トイレの最中だったはずの彼が、血相をかえて戻ってきて銅鑼を取り返した。友だちは謝った。

●猛練習するのは音楽だけではない。音楽中のステップや手話、それに自己紹介も特訓のメニューにあった。

「あ~」「う~」

障害があって話せないとは言え、声帯があって声が出せるかぎりは、きっと話せるようになる。
猛特訓をこなし、ついに、親や親戚、学校の先生たちも招いての演奏会の日がやってきた。

<あしたに続く>