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その計画を捨てよう

●「ラロックの聖母」がレオナルド・ダ・ヴィンチの手によるものではないかと言われているが、もし彼の絵ならばまだまだ推敲途上のものらしい。たしか「モナリザ」も「最後の晩餐」も未完成品だと言われていて、彼にとって作品とは永遠に完成しないものなのだろう。

●もの書きにとっては、出版して本にすることを「上梓」(じょうし)するという。これは昔、梓(あずさ)の木に原稿を彫ったのちに印刷したことから生まれたことば。
だから上梓したときが作家の手をはなれて完成品になった瞬間といえる。

●私は小説家の生原稿をみるのが好きで、特に有名な作家の手によるものを生で見ると感慨深い。
大阪で見た司馬遼太郎の原稿は、赤や緑、青、黄などカラフルな色えんぴつで推敲されていて、色によって第何版の推敲かが分かるようになっていたという。

●氏は原稿用紙に万年筆で書くのだが、几帳面に一マスに一文字書くわけではない。たとえば、「統一された。」という言葉は全部で六文字になるのだが、それが四マスの中に納まっている。文字数をどうやって管理していたのか気になる。

●原稿用紙の欄外には追加や修正の原稿がどんどん書かれていくので、ほとんど元の原形をとどめていない。
「これじゃ文字数が分からなくなりませんか」と編集者に言われたとき、司馬は「それで分からんようじゃ物書きとは言えないね」と笑って答えたという。

●このように、元原稿が完成してからも推敲の手が次々に加えられるのだが、元原稿が完成するまでの下書き段階では推敲の何倍もの原稿を書いていたと想像することができる。

●小説家に限らず、画家も作曲家も作詞家も漫画家もデザイナーも陶芸家もプログラマーも、みんな自分の作品の出来映えにとことんこだわるプロ中のプロは、安易な妥協はしない。

ふつうの人だったら「よし!OK」と納品するような作品でも、平気で破り捨てゴミ箱行きとなる。

●社長は会社のデザイナーである。現在進行形の我社を今後どのような会社にしていくか、そのグランドデザインやシナリオを決めるのが社長業である。

●そのデザインやシナリオは、司馬遼太郎の原稿のように何度も何度も推敲しなければならないし、その労力を惜しんでいるようでは良い作品が作れない。

●過日、経営講座に参加されたある社長が「武沢さん、僕はどこから手を付ければ良いですか?」と尋ねてこられた。

経営理念も数字計画も営業計画もみんな中途半端な状態で未完成である。近々完成させたいのだが、まずはどこから着手すべきかというのだ。
私は迷わず申し上げた。「今までのは全部捨てて、最初から作って下さい」

●その社長は唖然としながらこう言った。
「そんなことしたら、今までの労力はどうなるんですか?」

私からみて、中途半端で迷ってしまうような「作品」などさっさと捨ててゼロから新しく作り直したほうがよい。
そのうち、絶対手放したくない「作品」が生まれる。それまでに一週間かかるのか一ヶ月かかるのか分からない。

だから社長の仕事は、一年中経営計画書を作ることなのだ。