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西野の長女

●「おい西野、すまんがあの資料、今日中に必要になった。俺は今から外出するが、26時までに仕上げてメールくれ」
「ウッス、社長、まかしといて下さい。まだ4時間ありますから」
「いつもすまんな。お前が頼りだ。じゃ行ってくる。夜食、くえよ」
「もちろん!」

●チーフの西野(29才)はよく働く。
西野だけでなく広告代理店「谷村エージェンシー(仮)」の社員20人全員が夜の11時が定時だと思っているかのように長く働く。終電がなくなるからやむなく帰宅するという雰囲気だ。

給料は悪くないし、20才代は体力があるから翌日に疲れが残らない。
特に独身者はこれくらい長時間働いた方が余分なお金を使わなくて済むからかえって好都合だと言わんばかりだ。
だが、西野は結婚三年目で子供が2人いた。

●社長の谷村は今年50才になる。彼自身も若い頃は寝食を忘れて仕事をした。だから、若い部下には思いっきり仕事をさせて鍛えるべきだと思っている。

●ある休日のこと。社内の有志でゴルフコンペを行った。

運転好きの谷村は愛車を駆って早朝、西野を迎えに行った。西野が住む都内のマンションの玄関先には、すでに奥さんが谷村の到着を待っていてくれた。やがて西野は長女と一緒に降りてきた。長男はまだ寝ているらしい。

●結婚式以来になる奥さんにむかって、
「ご主人をお借りします。なるべく早くお返ししますから」と谷村。
そして二才になるという長女に向かっては
「パパ、すぐに返ってくるからね」と笑顔を見せた。

●そのとき、コクンとうなずく長女の目をみて谷村はハッとした。

まだ午前6時、本当は眠くて眠くてしようがない。目もあけていられないほど眠いのだろう。でも、つかのまのパパとの時間を一緒に過ごしたくて、必死に眠さに耐えている、そんな目をしていた。

●谷村は真っ赤になった彼女の目が、
「パパとの時間をもっと下さい」と言っているように思えた。
「社員は自分のものじゃない。家族のものだ」と思うと、ゴルフ場へ向かう道中、いつものような軽口をたたく気分になれなかった谷村。

その日、谷村はゴルフをしながらもゴルフのことが記憶にないほど考え込んだ。

●あれからずっと、社員の年間労働時間の総量規制を真剣に考えている。今後3年かけて、一人あたり平均2700時間/年 にしたい。
今は平均で3300時間ある。西野は4000時間近くあった。今後3年で一人平均600時間の削減になる。これは容易ではない。

そのためには、有給休暇の取得促進の徹底や、長期休暇制度の新設などを含めた総合時間短縮策を策定しなければならない。

●また、一律に減らすだけではなく、減らさない社員も必要だと考えた。特に独身者の一部は、「もっと思いっきり仕事をさせてほしい」という声もある。法律が認める範囲内でそれを許可する社員もいる。
だが既婚者には、総量規制を守らせる。

●もちろん、時短だけでは収益の悪化につながる。
だから、時短と同時に社員一人あたり年間粗利益を増やさねばならない。どうやったらそれが可能か。
社員に求めるハードさは量的なものから質的なものに変わっていくことになりそうだ。

量の要求から総量規制へ、そして質的要求へ。
西野の長女のためにも谷村は経営改革をしなければならない。