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続・志気盛ん

●「西郷と大久保と木戸を足したより大きいとはいえないが、この三人を足して3等分したより継之助の人物は大きかった」(徳富蘇峰)

「日本最後の武士。幕末の人材を考えてみて、継之助は木戸孝允より3倍ほど上の人物です。もし西軍側の人物であったら、今頃お札になっていたであろう人物です」(司馬遼太郎)

「イヤイヤ東北にもなかなか人物がある。特に長岡の河井は、得やすからざる人物である。不幸にしてみちを異にしたので賊名を負うて、たおれたが、もしも今日世にあるならば、臺閣に立つべき一人である。確かに一代の傑物である」(西郷隆盛)

とまで周囲に言わせた長岡藩家老・河井継之助。

●彼を主人公にした歴史小説『峠』で著者の司馬遼太郎はこんなセリフを継之助に言わせている。

「志の高さ低さによって、男子の価値がきまる。だが、志ほど、世に溶けやすくこわれやすくくだけやすいものはないということだ。
(中略)
妓(おんな)は、いい。それだけに婦人ほど男子の志を溶かすものはない。おそろしいのは、志の薄弱な市井の遊冶郎(遊び人の意)のみが婦人におぼれるかといえば、そうではない。英雄豪傑のほうがかえって溺れる。それは多感だからだ。一種言うべからざるの情において鉄石の志をも溶かされてしまう」だから妓(おんな)はやるな、と後輩の佐吉少年に教えた継之助。

●かく言う継之助はどうかというと、吉原細見(遊女名鑑)にチェックを入れ、相手を◎○△×で評価している。
佐吉少年がそれを見るに、吉原の遊女のおおよそ八割までを継之助はすでに買っていたというから勇ましい。

継之助、30才前後。あり余る若さはもちろん、彼ほどの英雄豪傑にとってはこの程度の “余技” ではエネルギーの浪費にならなかったのだろう。

●継之助の三つ年下になる吉田松陰(長州)の場合、女性とはどのようなスタンスで接したのだろうか。

江戸時代の学問は、四書五経がベースになる。儒教においては「志」を重んじた。そして自らを「狂」(きょう)の人に仕立て上げようと努めた。

●松陰も継之助に負けず劣らず「狂」の人なのだが、女性に対しては真逆の考え方をした。

友人が勝手に手配した娼婦が自分の近くににじり寄ってくる。

それ以上近寄られるのをおそれた若き松陰(当時22才)は、娼婦に言った。

「もし近寄れば、刺す」

●終生、女性を知らなかったといわれる松陰は、孟子を学んだことから自分に誓いをたてていた。

以下、『世に棲む日日』(司馬遼太郎著 文春文庫)より引用。

・・・
要するに人間には精気というものがある。人それぞれに精気の量はきまっている。松陰によればよろしくこの精気なるものは抑圧すべきである。抑圧すればやがて溢出する力が大きく、ついに人間、狂にいたる。松陰は、この狂を愛し、みずから狂夫たろうとしていた。それが、おのれの欲望を解放することによって固有の気が衰え、ついに惰(だ)になり、物事を常識で考える人間になってしまう。自分は本来愚鈍である。しかしながら非常の人になりたい、非常の人とは、狂夫である。何人(なんびと)でも狂夫になり得ると思う。欲望さえおさえれば、だが。
・・・

●17才のとき、松陰は「寡欲論」という小論文を自分の戒め用に書きあらわした。
それ以来、性欲は完全に押さえ込んだ。遊興も自らに禁じた。囲碁将棋や絵画、俳諧のたぐいも志の邪魔者とみなし、退けている。

●それでも性欲は男子の自然現象だ。
書見台で一人静かに読書していても雑念妄想のたぐいが脳裏に浮かんでくる。そんなときは、小刀を取りだし、自らの股のある箇所を切って血を抜く。そうすると収まるということを知っていた。
懐紙で血をぬぐった後、何もなかったかのように再び読書し、自らの志を励ましたという。

●「志」には「狂」が必要であり、「狂」は「禁欲」からくる、という考えらしい。
我慢することが足りなくなった現代社会にあっては、多少なりとも必要なものが「禁欲」なのだろう。

●継之助も松陰も性欲には悩まされた。そしてそれぞれのスタイルを貫いた。

昨日の原稿を読まれた方が「続きを期待している」と励ましてくれたが、今日はその手前で終わってしまった感がある。

また明日につづく。