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無敵の弾丸タックル

●元・全日本王者が自宅の玄関脇の10畳部屋を改装し、レスリング道場を始めたのは34才の時だった。

子どもたちにレスリングの魅力を伝えたいと、掲げた目標は「楽しく」だった。楽しくなければ子どもも親も喜んでくれないし、道場も繁盛しないからだった。

●子どもたちは本当に楽しくレスリングを学んだ。そして、最初の大会で道場の教え子26人は全敗した。

「楽しければいいじゃないか」、「結果なんか二の次だから」という声もあった。でも、「勝ちたい」という声の方が父母からも子どもからも強くなった。

●「ならば」

と道場長の吉田栄勝は、方針転換を決意した。彼は鬼になった。
鬼に徹した。「攻めが大事なんだ」と延々とタックルをくり返した。
あまりの練習の激しさに気絶する生徒もいた。県の教育委員会から指導が入ったこともあった。やめる子が続出しても栄勝はもう迷わない。
鬼を貫いた。

●栄勝はかつて、フリースタイルレスリングの全日本王者。
「返し技の吉田」の異名を取る防御の名手だった。だが、そんな栄勝選手でも絶妙なタイミングでタックルを決められるときは防ぎきれなかった。
「オリンピック代表になる」という栄勝の悲願も、対戦相手の鮮やかなタックルの前で叶わぬ夢となった。
その辛くて苦い経験から、「タックルを制する者はレスリングを制す」という強い信念が生まれた。

●栄勝は、道場の子ども達に攻めのタックルをスパルタ指導した。それに耐え抜いた選手のほぼ全員が日本一になった。
そのうちの一人が自分の娘・沙保里(さおり)だった。

本当は沙保里の兄たち二人を五輪選手に育てたかった栄勝。この当時、女子レスリングが五輪正式種目になるとは思ってもいなかった。ましてや、娘が金メダリストになるなんて夢にも思っていまい。

●吉田沙保里は5才の初戦では6-7で判定負けした。
相手は同年の男の子だった。
試合はまだ残っていたが、沙保里は「負けたから嫌」と帰ってしまった。この大会で優勝したのはその男の子だった。それを聞いて沙保里は、親にねだった。「私も金メダルがほしい!!」父・栄勝は言った。
「金メダルはスーパーに売っとらん。がんばった人しかもらえんのや」

●沙保里は小学生になっても中学生になっても無敗というわけにはいかなかった。そのたびに負けずぎらいの沙保里は悔しくて、悔しくて、猛練習した。そして強くなっていった。

沙保里の代名詞となる「無敵の弾丸タックル」はこの時の猛練習が育んでいったものだ。

●道場を開いて22年たった。3才で練習を始めた沙保里は25才になった。

2001年の全日本女子選手権56kg級準決勝で、ライバル山本聖子選手に判定負けしたのを最後に、公式戦119連勝を記録する女王とよばれるまでの選手になった。

国際大会では1996年以来27大会連続の優勝を記録したが、今年1月に中国で開催された女子ワールドカップ団体戦でマルシー・バンデュセン選手(アメリカ)に判定で敗れ連勝記録がストップした。
それは国際大会での初黒星でもあった。

●中国の沙保里から電話が入った。彼女は電話の向こうで号泣していた。栄勝はひとつだけ聞いた。

「自分から攻めたんか?」

その言葉の奥には、「守りは教えとらん。うちの家訓は攻めや」という思いが込められていた。

娘の敗因は「タックル返し」だと分かり、栄勝はうなずいた。

「それならいい。もし攻められて負けたんなら、明日はないよ」

●その二ヶ月後、沙保里はアジア選手権で優勝し復活を果たす。しかし北京五輪でバンデュセン選手を破り、五輪連覇を果たすまでは本当の復活だとは思っていない父娘だろう。

●栄勝は三人目も息子を望んだが、母・幸代は娘が生まれて大喜びした。「可愛い名前を」と、アイドルにちなんだ名前をつけてやった。
「さおり」は南沙織から、「保」は河合奈保子から1字もらったという。

そんな沙保里の「無敵の弾丸タックル」を北京で期待したい。

●「攻めたんならいい。もし、攻められて負けたんなら明日はない」

この栄勝のメッセージは、会社経営にも通ずるものではなかろうか。

※(敬称略、参考・中日スポーツ2008年7月10日号 19面、他)