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私の酔狂談

※たまには、軽い気分で読み流してください。

「酔狂」ということばがある。

私のイメージで、酔狂とは旅館などで女将に請われ、酒に酔った勢いで酔狂でかいた書や画が価値急騰。百年後、その宿の入口正面に額装されていたりするという、かっこいいものが酔狂だ。

私もそんな「酔狂」をやってみたいと長年願ってきたら、意外に早くチャンスが巡ってきた。

2007年11月、I氏と鎌倉で昼食。江ノ島を見下ろす絶景の船宿の二階で、湘南の地魚と酒を堪能していた。

この日、未明に起きだして二人で円覚寺の早朝座禅会に参加。それから、北鎌倉、縁切り寺、化粧坂、源氏山、銭洗神社・・・と、ずっと徒歩での周遊をしてきたので、ビールが格別に旨い。

6本目のビールを明けながらI氏は言う。

自分は、まもなく会社を設立して再出発する。これぞ、男50にして立つ、というものだ。武沢さん、あなたもオレの目標人物の一人だ。記念に何か一筆書いてほしい、と。

「おめでとう!」それを聞いて再び乾杯。その乾杯に彼の目は潤んだ。
Iさんが差し出さしたメモ用紙とサインペンを受け取って、私は何を書くべきか熟考した。同時に、「これぞ念願の酔狂か」と内心で思った。相手は旅館の女将ではなく、五十男だが、請われた以上はスラスラスラと格好いいことを書こう。

こんなとき、書き手として決してやってはならないことは、誤字を書くことだ。

求められて書く文字が誤字、ということほどかっこ悪いことはないし、相手の前途を傷つけることはない。だが、私はそれをやってしまった。
しかも平然と。

『積極一貫』(せきぎょくいっかん)という中村天風師が好んで用いたことばを私は書いた。正確には、書いたつもりだった。

だが、誤って『種極一貫』(たねぎょくいっかん)と書いてしまった。
書いた私は全然気づいていない。内心で多少の違和感というか、文字のアンバランス感を感じていたが、まさか誤字だとは思っていない。

以前に大量の自著を机に積み上げて、一冊一冊、朝から晩までサインしていた時がある。
必ず何かメッセージを書いてから自署する。そんな時も、300冊に一冊程度誤字を書いたことがある。

・(正)大切なのは情熱→(誤)大切なのは情報
・(正)熱狂的状況を作ろう→(誤)熱唱的状況を作ろう

誤字本は訳を言って家族や友人にプレゼントする。

このとき、受け取ったIさんは怪訝な顔をして、「どう読むのですか?」と聞く。私は得意げにこう言った。

「よく聞かれますが、それは”せっきょく”ではなく、”せきぎょく”とよみます。単なる積極的という意味ではなく、一貫して絶対積極でなければならない。絶対積極とは・・・」

などと数分にわたってウンチクを付け加えた。

「なるほど~」とIさんは私の話を最後まで聞いてくれた。そして、「大切にします」とていねいに二つ折りして手帳に挟んでくれた。

「ひょっとして種極ではなく、積極ではなかろうか?」とIさんは思っていた。だが、書いてくれた本人を前にして誤字の可能性を指摘するのも野暮だと思い、言葉をのみこんだ。

まじめなIさんは、私と別れたあと、自宅にもどって念のためにネットで『種極一貫』ということばを検索した。案の定、一件もヒットしない。
酒を相当飲んでいたとはいえ、あこがれの「酔狂」のつもりが、本当の意味での「酔狂」になってしまったわけだ。

Iさんはその日以来、「今度武沢さんに会ったら、『種極』の件を確認してみよう」と、いつも「種極」が頭から離れなかったという。

そう言われてみれば、署名に何らかのナゾや疑問を残すのも有効かもしれないと思ったが、単なる誤字はやっぱり良くない。

あれ以来、Iさんと「種極」はセットで思い出すようになってしまった。こんな失敗は二度としたくない。