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当事者意識

イタリアに惜敗したものの、オーストラリアのヒディンク監督は今大会でも評価を上げた。

一方、
「豪州戦の敗戦が痛かった」、「2試合続けてこんな暑い中で試合をさせるのはおかしい」、「日本サッカーはまだ未成熟」・・・。

残念ながら監督ジーコは終始一貫して責任を転嫁し続けた。一度でもよい、監督としての立場と責任をふまえた当事者的発言を聞きたかったものだ。

彼がブラジルの英雄選手になるためには、時には責任転嫁も辞さないほどのエゴが必要だったかもしれない。しかし、ナショナルチームの代表監督を引き受けたあとのサッカー指導者としての進歩成長がどの程度彼にあったのだろうか?
「日本の国の監督だなんて、ジーコは気の毒だ」と論じる外国紙もあるようだが、ジーコは決して被害者ではない。あくまで当事者であり責任者なのだ。

日本代表選手の技術不足、精神力不足、体力不足などは今大会で初めて露呈したことではない。敗戦はこれら選手の力量不足だけが原因ではないはず。
選手は日本人であって、ブラジル人ではないのだ。与えられたチーム条件の中で最高の結果を出すためのサッカーをジーコは生み出さねばならなかった。そういう点において、無為無策ではなかったか。

戦術的な話だが、ひとつの象徴的な例として “選手交代” があげられる。今大会のサッカーの特長のひとつに分業システムがある。
野球のピッチャーが先発 → セットアッパー → ストッパーと分業制が進んだように、サッカーも11人から14人で戦う時代に入ったようだ。

スポーツライターの二宮清純氏は「ワールドサッカー プラス」でのコラムに次のような記事を投稿している。少々長いがわかりやすいのでそのまま紹介したい。

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[唯我独論] ジーコの限界「11人対14人」 [06.06.14]

マジックにはタネがある。あえてキーになる言葉を探せば「イレブンからフォーティーンへ」ということだろうか。

オーストラリア代表監督フース・ヒディンク。敵将ながら、その鮮やかなカードさばきには惚れ惚れする。84分、89分、ティム・カーヒル、92分、ジョン・アロイジ。代えた選手がすべて点を取ったから言っているわけではない。Aプラン、Bプラン、Cプラン、Dプラン…。
ヒディンクには無数の引き出しがある。点差や時間帯、あるいは試合の流れを的確に読みながら、ためらうことなく自らが信じたカードを切っていく。交代枠を含めた14人で戦うことは最初から折り込み済みなのだ。

ダメ押しの3点目を決めたアロイジの言葉は何よりもベンチへの信頼感を物語るものだ。「同点になった時、中盤に下がって守るかと監督に聞いたら、そのまま勝ちにいけと言われた。その通りになった」。
指揮官に最も必要な能力はソリューション(解決力)だ。難問を目の前で解いてみせないことには選手たちの支持は得られない。その作業を丁寧に行うことでヒディンクは信頼を勝ち取ったのだろう。

翻ってジーコのサッカーはクラシックだ。基調はあくまでも「イレブン」。オーストラリア戦で切るカードがことごとく後手に回った。
後半34分に投入した小野伸二というカードに託したメッセージを果たして他のフィールドプレーヤーは共有できたであろうか。ファジーなままではピッチに緊張感は生まれない。

スーパーサブの大黒将志にいたっては1対2と逆転された直後の投入だ。わずか2分間の滞留時間では、相手の裏をとるための“隠れ家”すら見つけられまい。切ったカードは同じ3枚でもヒディンクとジーコのカードさばきにはラスベガスのディーラーと隠し芸大会の素人マジシャンほどの差があった。

どんな結果になろうがジーコと日本協会の契約はこのW杯で切れる。
後任として複数の候補の名が挙がっている。あえてその基準を提案すれば「14人派」が望ましい。ワールドクラスの少ない日本にあってはミドルクラスの人的資源を有効に使う指揮官でなければ未来への展望はひらけない。それがカイザースラウテルンの教訓だ。
(二宮清純=スポーツライター)

→ http://www.sponichi.co.jp/wsplus/column_j/07565.html

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私たち経営者も”被害者”になることは許されず、一貫して”当事者”という立場なのだ。一秒たりとも被害者意識をもつことは許されない。

仮に、同じ選手を率いて別の人が監督をすれば、別の結果を出すだろう。
同様に、同じ社員を率いて別の人が社長をすれば、別の結果を出すだろう。名監督は結果を出すために策を講じ続ける一方、凡将は無為無策のままで昨日と同じような練習をくり返すのみ。これを無為無策という。

さて、
指導者としてのあなたは、今回のW杯におけるどの国の監督に近いだろうか?日本が去った今、監督を見ているのも楽しみのひとつだ。